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きょう でん  じぞう
教傅地蔵の伝説

 第九十六代後醍醐天皇1318年の頃、奥州白川在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり「教傅(伝)」と言う住職がおりました。
 この教傅は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預かってもらいました。その教傅も二十八歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
 亨元元年※原文ママ(1336年)のことです。教傅は二三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。教傅は、母が朝食を用意して進めると、まだ旅路支度も出来ていないのにと悪口を言いながら、お腹をけとばしてそのまま出発してしまいました。
 那須温泉に着いた教傅達はある日殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、今まで晴れわたっていた空が、俄かにかきくもり雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出し、連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。
 ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰を受け、火の海の地獄に堕ちて行く」と教傅が大声をあげて苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようと引き出しましたが、教傅の腰から下が、炭のように焼けただれており、息を引き取ってしまいました。それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。その後、那須湯元の有志が、享保五年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を断たなかった、と言うことです

    那須観光協会 那須町観光課設置の看板より                (注※1336年は北朝=建武3年/南朝=延元元年のいずれか)


現地看板 教傅地獄の由来
 以上が現地看板に記された教傅地獄の由来です。

 この話が本当なのか、むろん定かではありません。南北朝時代の出来事のはずなのに、400年もたった江戸時代享保年間に「供養のために地蔵を建立した」というのも不自然な感じがします。

 しかし「いわれ」とか「言い伝え」というのはそうしたもので、真偽のほどはあまり重要ではないのかもしれません。現在も活火山である那須茶臼岳は、歴史上もしばしば小噴火を繰り返しています。そのつど火砕流や土石流が発生しており、また「九尾の狐伝説」の項で後述するように、殺生石周辺では、現在でも有毒な硫化ガスが微量ながら噴出し続けています。そうした災害で犠牲になった人々を供養するために立てられた地蔵、というのが真相なのかもしれません。

 あるいは、殺生石周辺の殺伐とした風景を「地獄」に見たてて、この世で仏の教え、戒めを守るよう、つまり「教えを傅(つた)える=教傅」という意味で、村人たちが地蔵尊を建立したものかもしれません。




















左 殺生石

賽の河原と千体地蔵 右


確かに「地獄」を思わせる風景ではあります

以前はこのあたりで盛んに

「湯ノ花」の採取が行われていました。
 

さて、話を教傅地蔵に戻しましょう。
 これが享保年間に建立されたという元の教傅地蔵尊です
裏面に    享保十五年
      村内志願施
   戌五月八日
という文字が刻まれています


このお地蔵さん、

昭和50年(1975年)頃には

首ももげて

元の形が分からないような状態だったそうです


現在、首には修復の跡があります

実はこれが今日に至る千体地蔵建立の

きっかけとなる出来事だったのでした
首のもげた古い地蔵…。
きっかけ? それはいったいどういうことだったのでしょう?
次のページでご説明しましょう。

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