道の駅 那須高原友愛の森工芸館 那須町工芸振興会公設ページ | |||||||||||
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■櫛田豊 昭和10年(1935年) ※芦野町寄居生まれ 幼少の頃から父親のあとについて 山仕事や石工の仕事を覚え、 10代20代には石工として 各地を修行する 現在、那須町寄居で 「櫛田石材」を営む ※現在の那須町は、1954年(昭29) 芦野町・伊王野村・那須村の 一町二村の合併によって発足した |
■千体地蔵の制作者 昭和50年代(1975〜)より 千体地蔵の制作を続け、 現在725体。 千体地蔵にはこの間、 さまざまなエピソードもあったが、 「大きな御手の地蔵さん」として 名勝「殺生石」とともに 那須湯本で多くの人々に 親しまれている |
----ずいぶん大きい手ですね。 櫛田 60年以上やってるからね。 ----60年、ですか。じゃあ子供の頃から? 櫛田 ああ。オレで三代目さ。オラんとこは山仕事と石の仕事やってて、オヤジのあとついて見よう見まねで覚えたのさ。 ----じゃあ、お父さんとはずっと? 櫛田 それがそうでもないんだ。十七,八ん時オヤジとケンカしちまって、ハァ家をおん出て四国の小豆島サ行ってた。 ----小豆島? 櫛田 あすこは石がたくさん採れるだろ。オレは身ィひとつだったけんど、石屋の半纏サ着てったモンだから、すぐ雇ってくれた。 ----へえ。やっぱり職人は強いですね。 櫛田 まあ、まだ職人なんていえるほどの腕前ではなかったんだけんど、あの頃は戦後の復興期だったから、石屋の仕事もいっぱいあったんだ。けんど、仕事始めたら親方にこっぴどく叱られた。 ----え? とうしたんですか。 櫛田 あすこはミカゲだろ。矢穴※の造りが違うんだ。(※石を切り出す際に鉄の矢を打ち込む穴。大きな岩にミシン目のように穴を穿ち,そこに矢を打ち込んで石を切り出す)。 |
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オレは芦野の石しかやったことがネかったから、おっきな穴を開けちまった。芦野石は準硬石だからそういうやり方なんだ。
したら、親方から『これじゃ売り物になんネエだろッ』って。ミカゲみたいな硬い石は、小さい穴をきっちりたくさんあけて 切り出していくんだが、オレはそれ知らなかった。親方がさ、『おめェ石屋の半纏着てきたから、ちっとは分かってんかと思ったら、なんもわかってねえ』って。あれにゃあまいったなあ。でもやり方ちがうんだから仕方ねえやなあ。(笑) でもああいう修行があとで役立ったよ。 ----石を割ることですか 櫛田 うん。最近の若い連中は、石ィ割っことが出来ない。みんな作業場で機械でやってくるだろ。 オレみたいに現場で石ィあわせてくっていうコトができねえなあ。最近では南湖の仕事もオレがやったんだよ。 ----南湖って、お隣の白河市の南湖公園ですね。 櫛田 そう。あすこの石積みをやったんだ。ああいうのは現場でいろいろやってかなくっちならないからね。 ----なるほどねえ。で、小豆島には何年いたんです。 櫛田 二三年だよ。それから芦野に昭和30年頃戻ってきて。あの頃は芦野石もすごく景気が良かった。住宅用として需要がたくさんあったから、黒田原から貨車でどんどん積み出したんだ。 ----住宅の土台、ですか。 櫛田 そう。その頃は住宅基準法が違うだろ。東京オリンピックの頃まではいろんな需要があったんだ。それで芦野にはいちおう戻ったんだが、仕事であっちこっち出向いたよ。東京にもずいぶん行った。 櫛田 まあそういうことだな。 ----話は千体地蔵のことですけど、もう30年以上になるんですよね。 櫛田 そうだなあ。そんなになるんだなあ。 ----エピソードはいろいろあると思うけれど、特に苦労ってありましたか。 櫛田 まあ話はいろいろあっけんど、国から待ったがかかって、いったん撤去って時は大変だったなあ。 ----ガッカリした? それもあっけんど、なにしろあすこは木道だろ。下の道路まではトラックが来れるけども、中まで入れるわけにゃ行かない。しょうがないから、モッコで担いで運び出したんだ。 ----モッコ、ですか。 櫛田 うん。それからトラック乗せて、湯本の役場支所の車庫まで運んだんだ。三年間、そこに置いてあったんだ。 ----じゃあ戻すときも同じ方法で? 櫛田 そう。石っていうのは重いからね。人手で運ぶのは大変だよ。 ---- なるほど。まだまだ話はありそうだけど、そろそろ閉館時間だから、また聞かせてください。 櫛田 ああ。 製作実演の終わったある日の夕刻、工芸館事務室にてお話をうかがいました。 |
■櫛田さんのこと なにしろガンコおやじである。「この若造が〜ッ」と顔を真っ赤にして怒り出したことが、 一度ならずあって、『わッ櫛田のおっちゃんがまた怒り出したゾ』と会員の間では恐れられている。 で、ついたあだ名が「テラウチカンタロー」。 ご存知、昔テレビドラマでやってた、なにかというと茶ぶ台をひっくり返して怒鳴る主人公。 小林亜星が扮した石屋のオヤジである。「若造」といわれたって、こちらも五十代。 それぞれ工芸の道を歩んで一家言あるのだが、そんなことはお構いナシ。 おかしいと思ったらおかしいし、ガマンならんことはガマンならんのである。 工芸家といっても、最近は物腰の柔らかいサラリーマン然とした人も増えた中で、 この人だけは頑として「職人気質」なのだ。いろんなエピソードが尽きないのだけれど、 たいていの会員は「まあ。櫛田さんだからね」とニヤニヤして認めてしまう。 決して煙たがっているのではない。それどころか、そんな櫛田さんを内心敬愛しているのである。 そして、「ああいう職人気質の人が最近めっきりいなくなったよなあ」と言うのである。 だから、いつまでも元気で千体地蔵を彫り続けて欲しい、そう思うのである。 文責 工芸振興会 戸村裕 |
■製作実演 櫛田豊氏は1988年(昭63)の那須町工芸振興会発足以来、 石工部門の代表役員を務めるかたわら 4月〜10月の期間中の毎週末、製作実演を行っています。 工芸館正面からは死角になって、 ちょっと分かりにくい場所かもしれませんが、 機会があったらぜひお訪ねください。
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製作実演 1988年(昭和63)ころ |
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