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■神話としての九尾の狐 中国における 「九尾狐」の出典は古く、 春秋戦国時代から秦・漢期(紀元前5世紀〜3世紀)にかけて編まれた 神話的地誌『山海経』(せんがいきょう)に すでに神獣として登場するそうです。 年老いて尾が何本かに分かれた霊的な獣、 というキャラクターは世界中にあり 元々アジア大陸のどこかに、 尾がいく本かに分かれた老狐の説話があったものと思われます。 この中国の説話が朝鮮半島に伝わり、 韓国では「九尾狐(クミホ)」と呼ばれるそうです。 |
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山海経 |
■封神演義(ほうしんえんぎ) ところが、この平安をもたらす神獣が、 明代に成立した伝奇的小説『封神演義』で一変します。 現在われわれが知っている「九尾の狐」の話は、 この『封神演義』が元となっているようです。 |
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歌川国芳「班足太子と九尾の狐」 | |
妲己(だっき)となって殷の殷王朝の最後の王、紂王(ちゅうおう)を惑わせた妖狐九尾の狐は、 西域インドの耶竭陀(まがだ)国の王子、班足(はんぞく)太子の華陽夫人として再び現れる。 班足太子も、華陽夫人に操られ、 千人もの人々を虐殺する悪逆無道な政治を行ったが、 しかし、耆婆(きば)という人物が夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹で作った杖で、夫人を打つと、 たちまち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行った。 |
■日本版九尾の狐 浮世絵版画が流布されるほど この話は鎖国下の日本で受け、 歌舞伎や人形浄瑠璃の題材として しきりに上演されるたようです。 これによって同伝説は広く庶民に浸透し、 玉藻前と言えば 九尾の狐を指す代名詞となったほどでした。 |
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葛飾北斎 『三国妖狐伝 第一斑足王ごてんのだん』 南天竺の華陽夫人となった白面金毛九尾の狐が 国を滅ぼすのに失敗して逃走する |
ところで、日本にはこれとは別に 元々殺生石のいわれがあったものと思われます。 芭蕉と曾良が「奥の細道」紀行で 当地を訪れたのは元禄2年(1689年)。 同行の曾良が詠んだ、 飛ぶものは 雲ばかりなり石の上 という句は、 当時の人々が殺生石の放つ毒気(火山性有毒ガス)が、 その周囲の生物に影響を及ぼすことを すでによく知っていたことを示しているのではないでしょうか。 その当時にはまだ「九尾の狐」の話は流布されておらず。 奥の細道にもその記述はありません。 元々あった殺生石の逸話と「九尾の狐」を結びつけたのは 江戸後期の戯作者たちだったようです。 鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』より「殺生石」 安永10年(1780年) |
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■玄翁和尚と殺生石 源翁 心昭(げんのう しんしょう)或いは玄翁。 嘉暦4年(1329年)〜 応永7年(1400年) 南北朝時代の曹洞宗の僧。越後国の出身。 18歳で曹洞宗に改宗し、總持寺の峨山韶碩に入門。 その後伯耆国に退休寺を開創し、 出羽国の永泉寺・下野国の泉渓寺などの住持となる。 茨城県結城市に墓所がある。 玄翁によって砕かれた殺生石が飛来したとされる地は 美作国高田(現岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現新潟県上越市)、 安芸国高田(現広島県安芸高田市)、豊後国高田(現大分県豊後高田市) また、四国に飛来したものが犬神になり、 上野国(現・群馬県)に飛来したものがオサキになったともいう。 岡山県真庭市勝山の玄翁の開山による化生寺境内には、 「殺生石の石塚」が存在している。 |
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また、これも玄翁の開山とされている福島県白河市表郷中寺常在院境内には、殺生石の破片と言われる石が祀られており 玄翁の座像と殺生石の縁起を描いた絵巻「紙本著色源翁和尚行状縁起」が伝えられているという。 |
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